2016年1月。春のようなうららかな冬の午後。水彩画の恩師であり、メンターであり、親友でもあるポール・チンボアからメールが届いた。僕は職場のコンピュータでそれを読んだ。
Dear Mitsu
すぐ電話してくれないか。是非話したいことがある。
意外だった。こちらから連絡することはあっても多忙なポールからコンタクトしてくることはほとんどなかったからだ。何か手伝って欲しいことでもあるのだろうか?いろいろ逡巡してみても始まらないので、僕は部屋のドアをしめて、ポールの携帯番号を押した。ポールはすぐに出た。僕は社交辞令的な挨拶もほどほどに、すぐに本題に入った。
「ところでポール、あのメールの件だけど」
「うむ。今、仕事中か?」
「ああ、でも少しくらいなら話せるよ」
「OK。じゃあ手短に話そう。リーグに、フランスに学生を送る奨学金がある。知っているか?」
「知っているよ。数年前、イズミがそれを受けて、パリに滞在したから」
「そう。でもパリだけじゃない。南仏にも受け入れ先がある。どちらに行くかは希望次第だ。実は、その奨学金に君を推薦しようと思っている」
「え、本当?」
「どう、興味あるか?」
「もちろん」
「期間は、パリが四週間で南仏が六週間」
「六週間か・・・」
僕は、穏やかな午後の光を浴びて反射する、向かいのマンションの窓をなんとなく眺めながらつぶやいた。六週間と聞いてまず頭に浮かんだのは仕事の調整だった。有給休暇の上限をはるかに超えている。どうやって休むか。
「申訳ないけれど、期限も近づいているから早く教えてほしい。詳しい内容はメールで送るけど、この奨学金は推薦オンリーで学生が自ら応募することはできない。もし君がダメなら他の学生を推薦したい。できる限り早めに教えてくれたら助かる」
「わかった。なるべく早く連絡する」
ポールの言う「リーグ」とは、「アートスチューデント・リーグ・オブ・ニューヨーク」の略称だ。ニューヨーク市マンハッタンにある美術学校で百年以上の歴史を持っている。フルタイムの学生もいて、単位も取得できる、きちんとした教育機関なのだけれど、少し形態が変わっている。入学試験もなければ卒業式もない。お金を払えば誰でもいつででも授業を取れる。その点では街のカルチャーセンターに近いと言える。ただ卒業証明書も発行し、奨学金や助成金が充実している点はカルチャーセンターとは異なり、美大に近い。ポールはそこの先生であり、僕は生徒だ。
僕がリーグで水彩画の授業を取り始めたのは2002年だから、もう十四年通っていることになる。途中、一年近く行かなかったことがあるけれど、こんなに長く続くとは思っていなかった。ただ十四年と言っても、週一回のクラスなので、総時間数に換算すると、それほど多くない。美大に四年間通うより少ないかもしれない。
電話を切った後、すぐにポールからのメールが届いた。メールには奨学金の応募要項が記載された書類が添付されていた。
奨学金の正式名はFantasy Fountain Fund Scholarship。直訳すると「空想的噴水基金」。奇妙な名前の財団だ。それが、基金の創設者である彫刻家グレッグ・ワイアット氏の代表作品「Fantasy Fountain」に由来していることは、後で知った。渡航費、宿泊代、学費はもちろん、若干の生活費まで支払われる、いまどき珍しい実に寛大な奨学金だった。手続きとしてはまず書類審査があり、その後、七人のファイナリストに絞られて面接が行われる。そして最終的に三名(パリ二名、南仏一名)の受賞者が選ばれる。
僕はまず、イズミ(仮名)さんに電話を入れた。
「どうも、ミツです」
「やあミツさん、元気?」
いつもの快活な声が聞こえてきた。自分より年上のイズミさんは華奢だけど、パワフルかつ繊細な絵を描く。七年前、同じ奨学金を得てパリに行った。美大出身とは言え、当時、自分との実力差をまざまざと見せつけられたようで複雑な思いがした。
「本当!よかったね。で、どっちに行くの?パリ?エクス?」
「エクス?」
「Aix-en-Provence。エクス・アン・プロバンス。でもみんなエクスって呼んでるよ」
イズミさんはパリに行ったわけだけれど、僕はパリの風景を描いている自分をどうしてもイメージできなかった。すでに自分の中では答えは出ていた。
「たぶん、エクスにすると思う」
「いいんじゃない。ミツさんの画風には向いてるかもね」
イズミさんとの電話で、奨学金のだいたいの輪郭は描けた。
まずクリアしなければならない問題は仕事の調整だ。まだ受かったわけではないけれど、決まった後に「仕事を休めないから、受賞を辞退します」とは言えない。何より推薦してくれたポールに多大な迷惑をかける。それだけは避けなければならない。
さあ、どうするか。